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天国と地獄それとも浄土

母親がなくなってから、私の中で何かが決定的に変わった。それはこの日本には正義などというものは、全くないこと。すべてが中間色のもの、あるいは無意味なもの。私も来年になれば70になる。

母の死で、天国とか地獄とか浄土とか、そういうものを少しは考える。それで少しは母はどう考えていたのか、振り返ると、ほとんど何もない。おばあさんが、よく朝、太陽に向かって「南無阿弥陀仏」と唱えていたことは聞いたことがある。でもこれは農家なので当たり前のことのように思う。太陽がすべての生命の源であろうし、疑いのないことと思う。

でも、母は「南無阿弥陀仏」と唱えていることは一度もなかった。父が死んだ時も、一時は線香をあげていた。しかし、それも長くはなかったように思う。神様を信じるとも、仏様を信じるとも聞いたことはない。ただ永平寺や善行寺には行ったことがある。他の人と同じようにお参りしたのだろう。それを考えると、少しは神様や仏様を信じていたのだろうか。

お墓をきれいにしたり、お寺に持って行ったりした。お寺には、墓地の近くに水道をつくってもらったようにしたかもしれない。その時何かを寄付したと聞いたが、私は忘れた。これは信仰心なのだろうか。一度こんなことを言ったことがある。それはまだ年寄りにはなったが、まだ死ぬということが現実的ではないようなときに「一度焼き直さなければダメだ」と。それから仏様は永平寺で二つ買ったように思う。

阿弥陀様と道元禅師の木彫りの手のひらほどの大きさのものをひとつ。主にこのようなものだ。これで信仰心があるかどうかは分からない。私が思うに、それは信仰心というより、今現実のあるがままを受け入れているように思う。何か現実の様子で、これらが現実に及ぼす吉凶を占う、あるいはお告げのようなものを、母は極端に嫌った。これはそのままを受け入れてはいないように思う。

ただ現実を受け入れる。それと地方で育った母親の母親の太陽を信仰するままを、どう受け入れていたのか。そのままではないのか。死んだら人はどうなる。

私は天国も地獄も、この世のことと思っている。では浄土はあるのだろうか。それは現世が苦に満ちているという、動かすことのできない事実によって、存在すればいいという人の願いであろう。きっと助けてもらえると。

こんなことがあった。私は全てのものは何もないと思っている。浄土も。それは私たちの身体が、そのようにできているものと思える。母がガンになり、放射線の治療を受けていたとき、ある患者と話をしたとき、私がその人を励ます意味において、ニーチェの「現実が永遠に繰り返される」ということを、話した時に、母は、なぜだか知らないが、異常に私の言うことに加勢したことがある。「そうそうそう」と。

私自身はそんなことはない、と思っているが、母はどうもそう思っていたのか。私は人の生は一回きりで、永遠の闇の中に入る、と思っている。ニーチェが実存の思想で、「今ここに在る」ことを、切に考えることを重視するなら、私もそうかもしれない。もう後はないよ。今日という日は今日だけ。仏教の無常と輪廻転生は矛盾するように思う。

ただ万物は常に生成を繰り返すならば、骨だけを残して、転生することはあるのだろうか。無常であるのに。

ただ私はこう思う。今の私は苦しい。母親が殺されたことで、どうにも心の行き着く先がない。だからここらで思うことは、母のように生きようということと、母ならばどうするかということ。だから人は、母の言うように焼き直して、永遠に生まれ変わるということを、考えなければならない。亡き人の喪失感を受けるにはそれしかないのかもしれない。ニーチェの時の母の異常な加勢を考えると、母もそう思っていたのかもしれないし、そう思いたいのかもしれない。現実が永遠に繰り返されるということ…。

私はキリストのように生きているが、生成を繰り返すなら、また…。

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